他人は・・・
私は自死を決して肯定はしない。
でも、否定もしない。
自ら死を選んだことのある私。
死ねなかったけれど・・・
死ぬ直前までいった。
助かって、今、生きているのは奇跡だ。
では、なぜあの時、死にたかったのか。
『生きてる意味がわからなかったから』
私はあのころ、絶賛・鬱病で、何も理解してくれない母親に対して怒りでいっぱいだった。
絶望的だった。
家に居場所がなかった。
気持ちの休まる時がなかった。
いつも監視されているように思えた。
仕事もできない私。
生きている価値がないと思った。
そんな私に母親は言葉の刃を向けてきた。
衝動的に多量の薬を飲んだ。
あとは覚えていない。
そんな私が自死遺族になってしまった。
旦那さんは私の前ではつらい顔も見せずに、最後まで笑っていた。
一言も辛さや苦しさを言わずに、この世を去った。
それは旦那さんの強さとやさしさだったのだと思う。
おそらく旦那さんは『自分はこういう理由で死ぬんだ』とは本人もわからなかったのではないか。
ただ、何か深い寂しさとか、虚しさとか、切なさとか、憂鬱とか、そういうものが心の中に深く根をおろして、それを切り開いていく杖になるような強い光が見いだせない・・・
そういうことだったのではないかと思う。
旦那さんの生い立ちは、かわいそうなものだった。
やっと楽になれたのではないか・・・
そう思うとやるせない気持ちと共に、自死を肯定してあげたくなる。
けれど、決して自死を肯定したくない。
でも、否定もしたくない。
本人にしかわからない辛さや苦しみ、悩み。
そういったものをすくいあげることは、簡単ではない。
生育歴までたどらなくてはならない。
旦那さんがどうしても手に入れられなかったもの・・・
それがわかった気がする。
それは、私も同じだ。
代えのきかないもの。
お金では手に入らないもの。
どんなに手を伸ばしても手に入れられなかったもの・・・
この世で、手に入れることができなかったものを、あの世では手にできていることを祈っています・・・
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